「石(いわ)走る 垂水(たるみ)の上の さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも」(志貴皇子)万葉集の中でも名歌といわれるこの歌は岩の間の水辺に芽吹いたわらびに、春の息吹を表現した歌と言われています。また百人一首にも「君がため春の野にいで若菜摘むわが衣手にゆきはふりつつ」(光孝天皇)と詠まれています。
この若菜は七草であろうといわれていますが、春の七草は地方によって差はあるようですが「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」の七種をさします。 七草は五節句(古くは節供と書きました)のうち陰暦の年の初め、一月七日に行われる人日(じんじつ)の節句で中国から伝わったとされており、この日は「新年の占い始め」で「朝廷への年賀の日」でもあったと言われています。奈良時代に禁中(天皇の居場所)で正月始めの子の日に内膳司よりその年の七草の新菜をとってこれを羮(あつもの:熱い汁物)にして奉じる事がおこなわれたようです。これは万病を除くとされていました。神聖な行事としてまな板も包丁も浄めて用いられました。粥として食べ始めた時期は明確ではありませんが、平安時代に入り枕草子に「七日のわかなを・・云々」の表現が見られ宮中、公家から徐々に庶民に浸透したものと見られます。
現代でも北海道から九州まで多くの地域に伝承されています。この七草の種類や調理する方法は地域によって多少異なるようですが、庶民においても摘んだ七草は歳棚(歳神さまを祀った棚)の前で「七草なずな唐土の鳥が渡らぬ先に・・・」という七草囃子を唱いながらまな板の上の七草を包丁で刻んだようです。
九州の南部では数え年七歳になる子供の無事な成長を祝う行事として七草ずしを作る習慣が伝承されています。中国山菜の食文化との関わりの深い沖縄では、中国から移住帰化した人々の子孫が居住していた地域にナンカノシュク(七日節句)として、七種類の野菜を入れた七草雑炊(ナナクサジューシー)を霊前に供える風習が伝承されています。
現在桃の節句、ひな祭りとされる三月三日は古くは「上巳(じょうし)の節供」といわれも五節句の一つで旧暦三月の最初の巳の日に行われ、川や海で禊ぎをし、身を清める行事でした。今でも地域によっては「浜降り」と称し浜辺に出向くところもあります。この季節には蓬の若芽が芽吹く時期でもあることから、桃の節句は別名を草餅(よもぎ餅)の節句ともいわれています。
同じく五節句の一つ端午の節供は五月の最初の午(ウシ)の日に蓬や菖蒲を摘み家や門に飾る風習から始まったようです。平安時代には五節句の中でも最も盛大な行事だったようで枕草子にも「せちは、五月にしくはなし。菖蒲、艾(蓬草)などの香りあいたるのもいみじうおかし。云々」とあります。室町時代には菖蒲の根を酒に入れて飲み、あるいは菖蒲湯を沸かして浴することもおこなわれた様です。
1600年代(1629?54年または76年完成といわれる)に書かれた「清良記」は伊予宇和島の土豪土居精良の一代を描いた軍記物ですがその第7巻(別名新民鑑月集)は領主の勧農策が記されており日本最古の農書といわれています。この中に年間の食用植物が記されていますが、栽培野菜の他、月毎に多くの山菜が食用植物として記されており日常の食物として利用されていたことが分かります。
このように山菜は古くから詩に詠まれ、行事食に取り込まれ、時には非常時の食物として日本人にはなじみの深い食べ物でした。 |