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江戸時代の大阪の庶民のマツタケ狩りの様子[攝津名所圖會(1798)より抜粋]
江戸時代の大阪の庶民のマツタケ狩りの様子
[攝津名所圖會(1798)より抜粋]

  青森県など東北地方の縄文時代中期末葉から後期前葉(紀元前2000年から1500年)の遺跡から、当時の人々がきのこを身近な食物として利用していたことを示唆する遺物「きのこ形土製品」が多数発見されています。それらは食用可能なきのこ類を実に精巧に模したものであり、毒きのこ中毒を防止するための「縄文版きのこ見本」として用いていたのではないかと考えられています。また、岡山市の弥生時代の百間川兼基遺跡からは、マツタケを模した「土人形」が出土しています。

  このように、森の産物であるきのこは古代から食用にされていたと思われますが、きのこに関する記事が文献に現れるのは奈良時代以降のことです。最古のものとして、日本書紀には吉野の国栖人が応神天皇に土地の産物である茸を献上したことが記されています。この茸が何であったか定かではありませんが、食用きのこであったと思われます。万葉集には、奈良の高圓山のマツタケを詠う短歌が載せられています。平安時代の貴族や歌人はマツタケ狩りを季節の行事として楽しみ、そのさまは古今和歌集、古今集、拾遺和歌集にしばしば詠まれています。当時マツタケは貴重で、酒宴の席で食した他、土産や贈り物として使われていました。また、平安時代後期の今昔物語にはヒラタケにまつわる話が出てくることから、当代ではマツタケとヒラタケが珍重されていたようです。

  縄文時代の遺跡から出土した「キノコ形土製品」
  桃山時代になると、武士もマツタケ狩りを楽しんだ様子が記録として残されています。大衆がマツタケを食するようになったのは、江戸時代以降とされています。江戸時代の料理本「本朝食鑑」にはマツタケ、ハツタケ、コウタケ、シイタケ、ヒラタケ、エノキタケ、ショウロなど10種類のきのこが茸芝類として記されており、知識の普及とともに多くのきのこ類が食用にされていたようです。きのこの料理法としては、どの時代においても、吸い物、煮物、あえ物、焼き物が主であったとされています。また、マツタケがたくさん採れたときには、煮た後、塩漬けにして保存し、贈り物や祝いの日のご馳走に用いていました。大正・昭和になると、多くのきのこ類が安定的に栽培されるようになり、近年では、健康の維持・増進に及ぼす役割も次第に明らかにされていることもあって、きのこ類は我が国だけでなく諸外国においてもヘルシー食品としての需要が高まっています。
マツタケ   シイタケ   ヒラタケ
マツタケ▲
 
シイタケ▲
 
ヒラタケ▲
  世界的にみますと、日本人はきのこ好き民族といわれています。そのことは、きのこを表す言葉としてキノコ、タケ、ナバ、コケ、ミミ、クサビラ、モタシなど多くの方言が残っていることからもうかがえます。きのこ食は、自然豊かな森に接してくらしてきた日本民族の食文化の一つの特徴といえます。
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